たまにお客様や友人から良い絵本とそうでない絵本ってどうやって見分けるのですか?なんて聞かれることがあります。
自分には良い本と悪い本なんて区別があるなんて全く思っていないので困ってしまうのですが、そんな時は古本屋らしい答えをひとつ用意してたりします。
発売から随分時間が経っていて(大体30年くらいでしょうか)多く刷られているにも関わらず古本の価格が下がっていないものは名作と判断していいと思いますよ、なんて。あまり誠実な答えである気がしませんが、聞いた人は割と面白がってくれたりします。
自分もたくさん本、絵本と読んでいますけれど、とても有名な絵本を読んでいなかったりすることもしばしばあって、自分の店に入荷した本を値付けしようと市場価格をちょっと見てみたりすると、あれ、この絵本、随分刷られているんだけど値段が下がっていないな、ということで興味を持って読んでみて、むむむ、やっぱりすごい作品だった、と思うことは結構あるんです。
最近だと甲斐信枝さん、馬場のぼるさん「11ぴきのねこ」、そして林明子さん「こんとあき」
どれもすごい作品なので、色々と詳しく触れてみたいのですが、今日は林明子さんの「こんとあき」についてちょっと書いてみたいと思っております。
本当に有名で、人気のある作家の代表作のひとつだと思うので読んだことある方も、とても多いかと思います。
こんというおそらく狐のぬいぐるみと、あきという女の子のお話ですね。
1ページ目、1行目から、ちょっと不思議な感じです。
「こんはあかちゃんをまっていました。」
こんな風に始まります。
描かれているのは揺り籠をのそばですわるこん。
でも、揺り籠の中にはまだ誰も居ません。こんはうとうととしてきて眠ってしまいます。(こんは夢を見ます。広い砂丘の夢…)
次にこんが目を覚ますとそこには赤ちゃんが、もう揺り籠のなかで眠っています。
赤ちゃんは「あき」、すぐにこのあかちゃんを好きになったこん、あきはこんのそばで、どんどん大きくなります。
いつも一緒に遊んで…、でもとうとうある日、こんの腕がほころびてきてしまいます。
「だいじょうぶだいじょうぶ」こんは平気な顔で言うのですが、あきはあばあちゃんに直してもらおうと、二人で遠く、「さきゅうまち」に住むおばあちゃんの所へ向かうことにするのです…。
注目したいのは、先日紹介したデイジー・ムラースコヴァーの「ぼくのくまくんフローラ」のぬいぐるみは、半分フィクション、半分リアルであるような、そのようなもので語られていましたが、この「こんとあき」のこんはぬいぐるみでありながら話をし、動き回ることが出来るということです。
ですのでこの作品は子どもの視点/世界で語られる、フィクション/ファンタジー世界のお話、ぬいぐるみが喋り、動くことのできる魔法がかかった世界のお話と言って良いかと思います。
こんはあきと友達でありながら、ほんのちょっとだけお兄さんのような、そんな関係です。「だいじょうぶだいじょうぶ」そう言っていつもあきを勇気づけてくれるのです。
この絵本を読んでいて自分が一番不思議だ、と感じるのはやはり冒頭、最初の部分なのです。このお話は先に言ったように魔法がかかった世界のお話です。
しかしこのお話の一番はじめは、魔法の源泉であるはずの「子ども」がまだ存在していないところで、先にこの魔法がかかったぬいぐるみ「こん」が登場し子どもを待っているのです。
何が言いたいのかと言いますと、ぬいぐるみが喋り、動くのは、子どもがそう願い、そう思うから子どもにとって「ほんとうに」喋るのであって、大人だけの前では「ほんとうに」は喋ることはないはずだ、と思うのです。
ちょっと難しいことを言っているかもしれません。
子どもたちの前でぬいぐるみが本当に喋ることを大人たちはしばしば目撃しているはずです。けれど、かつて子どもだったはずの全ての大人はそれを「知らない」ので、ただの「ごっこあそび」としてしか処理することが出来ません。
だから子どもがいないところで、ぬいぐるみが「ほんとうに」しゃべることは有り得ないのです。
では何故、まだ子どもが居ない場所でありながらもそのぬいぐるみに魔法がかかっているのか。しかしそれは弱い魔法のように思えます。
こんは赤ちゃんを待っていて、けれどすぐに眠ってしまいます。(次に目を覚ました時には赤ちゃんがいます)
すぐに眠ってしまったのは、魔法が弱いからでしょうか。何か、魔法の残滓のようなもので、いちばん大事な使命だけを与えられただけのように思えます(こんな言い方をするとそれはまるで「ゴーレム」のようです。ちなみにゴーレムはヘブライ語で「胎児」を意味します…)。
こんはおばあちゃんに、あかちゃんのおもりを頼まれてさきゅうまちからきた。
そう書かれているのは、この絵本の二行目です。弱々しいながらも魔法を使えたのは、おばあちゃんなのでしょうか。
赤ちゃんが来たら、動き出すように仕向けられた、不思議な魔法。
(「子どもにぬいぐるみを与える」という行為そのものがこの「弱い魔法」である気もします)
こんは使命の通りに、あばあちゃんの家に向かう道すがら、あきを手助けします(どれもちょっとミスしてしまうのですが)。
あきが不安そうにしている時はいつも「だいじょうぶだいじょうぶ」と言ってくれるのです。
(ところでこのセリフはセンダック「うさぎさんてつだってほしいの」のうさぎさんが言う「いいともわたしでよかったらてつだってあげるよ」と、自分には同じ言葉に聞こえます。子どもが生み出した自分を庇護するフィクションの存在が、自分を勇気づけてくれる言葉、そうしたものに聞こえるのです)
子どもを守る、魔法がかかったぬいぐるみ。
すべての愛されたぬいぐるみにはきっと魔法がかかっています。
この絵本はその魔法の力を、存分に示してくれるのですね。
またこの絵本の魅力は、林さんの絵に大きく依存している部分もあると思います。リアリズムとファンタジーが高次元で融合したような、林さんの絵は、そうした子どもがかける魔法の世界、リアルとフィクションがないまぜになった世界を見事に描いていると思います。(実はこの作品の中にフィクションの登場人物(アリス、マグレガーさん『ピーター・ラビット』、タンタンなどなど)が多数紛れ込んでいるのもそうしたことの裏付けと見て取ることも出来ます)
実は自分たちにも、もうすぐ赤ちゃんが生まれる予定でおります。
生まれてくる子どものものを、少しづつ用意し始めたりしていて、それを寝室の一角にまとめているのですが、そこには先日パリへ買い付けに行った際に、古書店のオーナー夫妻から、生まれてくる赤ちゃんに、と貰ったうさぎのぬいぐるみがいるんです。
きっとこのうさぎのぬいぐるみは、まだ弱い魔法で、ここへ来て一度目を覚まし「あ、まだ赤ちゃん居ないじゃないか」と、再び目を閉じて、赤ちゃんが生まれるまで、少し眠っているところなんだと思います。。
うさぎのぬいぐるみが次に目を開ける時には、もう赤ちゃんは揺り籠の中で眠っていて、その時にはきっと大きな魔法が、子どもを守り、勇気づけることの出来るぬいぐるみになる強い魔法が、子どもの手によってかけられるのだと思います。
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