以前太田大八さんの絵本を紹介した際に、幼い頃に読んで一番記憶に残っている絵本のひとつとして書名を挙げたのがこの「びんぼうこびと」でした。
極彩色のサイケデリックな色調、そして子ども心に妙に納得がいかないお話に、居心地の悪い、何だか怖い絵本として記憶の底に残っていたのです。
でもそれも、ずっと忘れていたのですけれど。
大人になって、再びたくさんの絵本と触れ合うようになって、ある時太田大八さんと瀬田貞二さんによる「世界のむかしばなし」を手に取った時に、あれ、何だかこの絵の感触、感じたことがある気がする、と思ったのです。
暖色の色彩、うねったような、歪んだような曲線と文様のリズム、それは気のせいではない気がして、すぐにこの太田大八さんの他の著作を調べ、見覚えのある表紙を見つけたのでした。
「びんぼうこびと」タイトルと表紙を見て、すぐにこのお話の記憶は蘇りました。
働き者のお百姓さんがいるのですけれど、働けど働けど暮らしは良くなりません。するとある日ひょんなことから自分の家に「びんぼうこびと」が住み着いているのを知るのです。
このままびんぼうこびとに住み着かれたままでは一家の暮らしが良くなるはずもないと、こびとを騙して、家の外へ連れ出すのです…。
今再び読み返してみると、怖かった理由が少しはわかる気がします。
子どもの頃は、自分が持つ感情の理由をいちいち考えたりしないので、多分わかっていなかったのですが、小人たちを始めとした人々の顔色、そして全体にフィルターがかかったかのようなピンクがかった色調、そして、誰も悪いことをしていない(この点に関しては意見があるかもしれませんが…)のに、わりと一方的に「びんぼうこびと」そして「おかねもち」が不幸な目にあう、というお話に、たぶん居心地の悪さを感じていたのだと思います。
何だか居心地の悪い絵本、なんて言い方をすると、少し前からよく耳にする言葉「イヤミス」や、最近の若い子にしばしば(10代後半から20代中頃の年代でしょうか)見られる傾向だと思うのですが「バッドエンド好き」というカテゴリーと共通するトピックとして捉えられてしまうかもしれないのですが、個人的にはこのあたりの傾向をあまり積極的に肯定する気にはなれないんですね。
それよりも、私はこの「びんぼうこびと」の居心地の悪さを、読み手に負荷を与える本として、受け止めたいと思っているのです。
作家の古井由吉さんが、読み手が負荷を感じるような読書じゃなければ、そんなのは読書じゃない、というようなことを(多少ニュアンスが違ったかもしれませんが)何処かで書いていたのを読んだことがあります。
大人になってからの読書、例えば人文書を読む時などに強く感じる負荷(すらすら読めてしまう人も居るのでしょうが)、そうしたものを感じられる、その都度こちらが能動的に考えなければいけないような読書にこそ、読書の意味があるといったことを仰っているのだと思うのですが、この「びんぼうこびと」もそうした「読書」と通じる部分を持った絵本なのではないかと思うのです。
それは学習絵本などで「どうしてなのか自分で考えてみよう」といったようなわざわざそうした指示がなされている本とも違います。
考えるように意図されたものでなく、この絵本そのものが、読み手の心のなかで引っ掛かり続ける、「腑に落ちる」といったことや安易な「わかる」ということを拒否し続けるような絵本なのだと思うのです。
本当に本を読むのが好き、と言う人はこの「負荷」に対する免疫が強かったり、もしくはこうした「負荷」自体を楽しめる人なのだと思いますが、この「負荷」のせいで本を読むのが好きではない、と言う人や本が嫌いになってしまった人もたくさんいると思います。
ですからこの絵本も万人に薦められる絵本ではないのかもしれませんが、ある種の人たちの心のなかにはいつまでも不可思議な感触とともに残り続ける、人生の中でも特別な一冊となり得る絵本だと思います。
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