私はこの絵本を読むと、寂しさとともに、不思議な安心感も覚えます。
原題は「MR.RABBIT AND THE LOVERY PRESENT」というタイトルなのですが、これを日本語で出すにあたって、タイトルをお話の中の台詞「うさぎさんてつだってほしいの」に変えたのは、素晴らしいアイデアだったのではないでしょうか。
センダックとゾロトウという今では20世紀を代表する児童文学作家/絵本作家の共作がこんなに素晴らしい日本語で読めるのはとても幸福なことですね。
お話はそのタイトルにもなっている「うさぎさんてつだってほしいの」という女の子の台詞から始まります。
女の子は、今日、お母さんの誕生日だから、プレゼントをしたい、それを手伝って欲しい、とうさぎさんにお願いするのです。
快く引き受けてくれたうさぎさんと、会話をしながら(この絵本は二人の会話だけで成り立っている絵本です)、お母さんへのプレゼントをあれでもないこれでもない、と決めていくお話なんです。
二人の会話の掛け合い、優しくもちょっととぼけたうさぎさんと、一生懸命お母さんのプレゼントは何が良いか考える女の子の会話を読むだけでも微笑ましく、優しい気持ちになれます。
ようやくプレゼントは決まり、うさぎさんとお別れしてハッピーエンドでお話は終わります…。
お話だけを読むと、こんな風にすっと終わるのですが、センダックの挿絵を一緒に見て読めば、お話の感触は随分と違ったものになります。センダックがこのお話に深い奥行き、そして陰影を与えているのです。
どうやってそのような効果を与えているのか。センダックの挿絵には幾つか、不思議なところがあるのですね。
お話に登場していないので、何もおかしいことでは無いのかも知れませんが、この絵本には女の子とうさぎさん以外の人物は全く描かれていません。二人で家の周りや森の中を散歩するのですが、他の人は全く出てきません。何だか少し、不思議な感じがします。
後半にはもう夜になっているのに(お母さんの誕生日は「今日」なのです…)夜中に、小さな女の子と、うさぎさんだけで歩いています。(ここで二人は小川を渡っています。これを何かの象徴と読むのは行き過ぎな気もしますが...)何処か夢の中の風景のような感じを覚えます。
そして最後です。プレゼントが決まり家の前でさようならをする時なのですが、家のドアに付いている小窓からも、その脇の、怪しげに少しだけ開いた窓からも、灯りは全く見えず、家の中は真っ暗なのです。(誰も居ないのでしょうか?)
最後のページでは女の子は家の中に入ろうとはせずに、去っていくうさぎをいつまでも見送ったまま、この絵本は終わります。
センダックの絵とともにこのお話を読むと、このうさぎさんは一体何者なのだろう?と考えていしまいます。(妙に人間に寄せて描かれているその姿も気になってきてしまいます)
もうひとつ気になるのは、絵本を通して描かれている女の子とうさぎさんですが、女の子が後ろを向いたり、俯いたりして表情を読み取れない場面がとても多いのです。反対にうさぎさんの表情はいつも見ることができます。
そしてこれも考えすぎかもしれませんが、絵だけを見ると、女の子が泣いていて、うさぎさんがそれを慰めているように見える場面が、幾つかあるのです。
そうだとすると、女の子は何故泣いているのでしょう?
私はこの絵本を読むと、寂しさとともに、不思議な安心感も覚えるのです。
誰もが、子どもだった時に、思春期の頃に、いや、大人になってからのほうがきっともっと多く、稀にあった、もう頼るものが何もなくて、孤独と向かい合わなければいけない時、そんな孤独が、この絵本には描かれていると感じるのです。
その孤独の中で呼びかけた相手、それは何処にもいないのですが、きっといつもそこにいる、うさぎさん。
「うさぎさんてつだってほしいの」
そう呼びかけた、心の孤独の相手をしてくれる、そんなうさぎさんに自分も会ったことがあるような気がして、きっと安心感を覚えるのです。
この絵本を読んでいたら、うさぎさんは誰の心のなかにもひょっこりと現れて、もう何もない時に(小さな女の子が持っていたものは、お母さんに渡すプレゼントの入れ物である「カゴ」だけでした)、きっと声を掛けられるのを待ってくれている気がします。
「うさぎさんてつだってほしいの」
うさぎさんの答えはこうでした。
「いいとも、わたしでよかったらてつだってあげるよ」
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「うさぎさんてつだってほしいの」シャーロット・ゾロトウ モーリス・センダック
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