ぬいぐるみ。
もしかしたらそれは子どもの一番最初のともだちで、パートナー。
子どもが動物のぬいぐるみを好み、また大人が喜んで子どもの周りをぬいぐるみで埋め尽くすのは、母親のお腹の中で生命の進化の歴史を経て、人の子どもとして生まれてきたばかりのその子どもが、大人よりも、ずっと動物たちと近い存在であることの証左であり、大人たちもきっと、そのことを無意識に知っているからだ、とそんなことを何処かで読んだ記憶があります。
気付いた時にはもう大切なともだちだったぬいぐるみはだから、自分が母親のお腹の中にいた頃の記憶と深く関わり合っているのかもしれません。
このデイジー・ムラースコヴァーの絵本「ぼくのくまくんフローラ」は、くまのぬいぐるみのフローラをめぐるお話です。
ある日、学校からの帰り道で道端に捨てられていた、古いくまのぬいぐるみを拾ったペトル。
耳も取れ、汚れたそのぬいぐるみでしたが、彼は家へと連れて帰り、家族のみんなで綺麗にしてやり、愛情を持って、ぬいぐるみとともに皆で仲良くに暮らしていくのです。
お話に大きな展開があるわけではないのですが、淡々と、静かなテンポで進むこの絵本には、ペトル、妹のヘレンカ、そして母親、父親の、このぬいぐるみに対する愛情がどのページにも溢れています。
服を着せてやり、ご飯を食べさせ、寝かしつけてあげる、このぬいぐるみをめぐるひとつひとつに、暖かさがあり、この絵本を読むものはページをめくるにつれてどんどんと優しい気持ちになってきます。そしてやっぱり何だか懐かしい気持ちも湧き上がってくるのです。
一読しただけでも良い絵本なのですが、実はこの絵本には注目したい点がひとつあります。
それはこのくまのぬいぐるみであるフローラが、この絵本の中では、ぬいぐるみのような、または意思を持ったキャラクターでもあるような、そんなふたつのものの中間のように、不思議な形で描かれているという点です。
読むとちょっと不思議な感じがするのは、このくまのぬいぐるみが、生き物なのか、それともただの愛情を持って可愛がられているぬいぐるみなのかが、よくわからないのです。
もちろん喋ったり、自ら動いたりしているわけではないのですが、勉強をして、英語もフランス語も出来て、座ってラジオを聞いている…なんて書かれています。
しかしそのどれも、子どものごっこ遊びのようにも感じられるので、このぬいぐるみが本当に意思を持っているのかはわかりません。
考えてみると、子どものぬいぐるみ遊びはこの絵本のように、現実とフィクションが混ざった、不思議なものですよね。
大人から見ると、もうそのぬいぐるみは生き物ではないといった断定があるのですが、子どもの中では、そのぬいぐるみが喋らないということは勿論分かりつつも、そのぬいぐるみは喋る、ということもはっきりと肯定出来ているのだと思います。
その二つのこと、ぬいぐるみが生き物ではなく自ら動いたりはしないことと、ぬいぐるみは好きなように動き、意思を持って喋るということが、矛盾しないで心のなかにあるのだと思います。
このことは「フィクション」と言うものを考える上で、とても重要なことのひとつであると思われ、とても興味深いことなのですが…もう話が随分と長くなり、話の内容も段々と「文学」寄りの話になってきてしまいましたので、申し訳ございませんがここでは割愛させて頂きます。
最後にひとつ付け加えておきたいのは、多くの子どもの一番最初の友達が、半分フィクションの存在であるものだ、ということです。(このことを指摘すると以前センダックの「うさぎさんてつだってほしいの」を紹介した時に書いたその「うさぎさん」は何者なのか?ということとも繋がっていると思います)
ムラースコヴァーのこの絵本は、絵本の可愛らしさと、フィクションの深さ/神秘を併せ持った素晴らしい作品です。
既に絶版になって久しく、当店でも値段がそこそこしてしまうのですが、オンラインストアの方でも見て頂けたら嬉しく思います。
当店のデイジー・ムラースコヴァーの本はこちらです。
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