昨日は山下澄人さん、飴屋法水さんの「を待ちながら」をアゴラ劇場へ見に行っておりました。
思うところは色々とあったのですが、とても面白く感じたのは、そこに、すぐ目の前に人間の身体があるということ(このことを一番強く感じさせてくれたのは佐久間麻由さんでした)と、宇波拓さんの存在でした。
*以下公演の内容に触れた部分がございますので、未見の方はその旨ご了承の上お読み下さい*
当日頂いたパンフレットには飴屋さんが演劇の「嘘」ということを少しだけ書いていましたが、この公演で私が強く感じたことのひとつが、目の前に人間の身体あり、それが動き、声を出し、叫んでいる、という「本当」でした。
特に、出演されていた女優のひとり、佐久間麻由さんの笑顔や叫びを前にすると、その言葉の意味よりも先に(もしかしたら後かもしれないのですが)、それを聞く自分の身体が、眼の前にいる人間のそうした笑顔や叫びに否応なく反応をしてしまうのでした。
それは例えば眼の前で人が死んでいたり、比喩ではなくその言葉の通り血を流している人がいたとして、そういうものに反応してしまう、ある種の恐怖にも似た、身体の反応だと思うのです。
飴屋さんは演劇は映画に比べて嘘をつくのが下手くそだ、と書いていましたが、この公演における目の前に人間の身体があるという「本当」は、たとえその叫びが嘘であろうとも(いや、それは確かに嘘なんですけれども)、揺るぎない「本当」を差し出していると感じたのです。
そして、宇波拓さんの存在です。
この演劇で私が一番感動をしたのは、この劇の終盤になされる宇波さんの朗読でした。
「人々は彼を埋葬するだろう…」
宇波さんはこの劇では音楽:宇波拓としてクレジットされていて、出演の方に名前はないのですが、彼は舞台の上に立っていて、音を出し、演奏をし、また時折演者たちと絡みもしているのです。
けれど、私の記憶違いでなければ彼はその朗読以外、言葉を発しません。
はじめは言葉を発することが出来ない人物として登場した飴屋さんの演ずる男も、ある場面以降よく喋ります。しかもマイクで(これは反転した意味を含ませた演出でしょうか)。しかし宇波さんは喋りません。沈黙しています。
私が思うのは、この劇の中で一番外側にいる人物は、この宇波拓さんなのではないかと思うのです。この劇では、観客もある程度は劇の中(フィクションの中に)に含まれている、含まされていると思うのですが、宇波さんはその、見ている、劇を見に来ている人々よりも、外側に配置されているように思われるのです。
これはややこしい部分を大いに含んでいそうな話なのですが、こうした舞台芸術において、音楽というのは、その演じられるフィクションとは全く別の次元の「フィクション」なのではないか、と言うことを一つの根拠としています。
(このことを正確に根拠付けるためには、音としての言葉が「意味」をもっていることや、その言葉と「音楽」との揺れ動く境界について詳しく言及しなければいけないのでしょうが…)
そしてもう一点、彼が唯一発する言葉が、外の言葉である「朗読」という事です。朗読するのは、ベケットの「また終わるために」の中の一篇です。
(この劇の中では「子ども」を演じるくるみちゃんもアンネの日記を朗読するのですが、それは「この劇の中の朗読」であって、外側の言葉、と言う形では行われていません)
(また先に言いましたが、宇波拓さんが出演者ではなく「音楽」としてのみクレジットされているのも、この人物がこの劇の外側にいる人物であるということを補強しているように思えます)
この朗読されるベケットのテキストの「彼/私」という分離しているようで、ひとつであるようでもあるそれらが、この朗読をする「音楽家」と言う人物と響き合い、彼は自らの存在する不思議を語るように(「音楽家」は出演を「していない」のです)、劇の中では沈黙をしたまま、言葉を語るのです。
ちょっと、ぞっとするほど感動的な朗読です。
こうした言い方をしなくても、宇波さんの朗読、何だか良いんですよ。
ミュージシャンは皆朗読も上手いのでしょうか?それともこんな特異な音楽家である宇波さんだからでしょうか。
(私は宇波さんについては杉本拓さんら日本の即興音楽シーンのミュージシャンとして、またHOSEやかえる目、沖島勲さんの映画音楽などについてしか存じませんが)
この演劇作品「を待ちながら」は前売りは全て売れてしまっているようですが、各日当日券は若干数出しているようで、また追加公演も決まったようですので、気になった方は是非ご覧になってみて下さい。
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