子供の頃に読んだ時はマックスが悪い子で、こんな悪い子、嫌だなあって思ってあんまり好きになれませんでした。
それでも何となく好きだったのは、マックスが部屋に閉じ込められていると部屋の中ににょきにょきと木が生えてきて、ジャングルになる場面。いつもの風景が、ふわりと、違う世界へ混じっていく感触。ちょっと怖くて、ちょっとワクワクして、好きでした。
こういうモチーフはよくあるけれど、思い返してみれば小さい頃からずっと惹かれていた気がします。例えば「おしいれのぼうけん」で、閉じ込められた押入れから高速道路へ続いていくところ、例えば「ナルニア物語」で隠れたタンスから森へ続いていくところ。異世界への冒険の香り、幼い頃には、それは不思議な旅へと誘う甘い香りでした。
日常のひらけた空間から狭い空間に閉じ込められ、しかしそこからさらに広い別の空間へと抜け出る。これは神話の時代からよく見られる構造で、子宮の通過、と言うのが一般的でしょうか。物語展開の基本要素のひとつで、神話から現代文学に至るまで数多く見られますね。最近のもので思い出すのはアルノー・デプレシャン監督の「ジミーとジョルジュ」。夢の中の場面で、突き当りが細くなっていくテントのなかを通っていく、そこを抜け出ると、青空の下の草原へ、そのずっとむこうに花畑の一角があって・・。心惹かれる不思議な場面でした。それよりも、村上春樹さんの小説でもよく現れていますね、という方がわかりやすいでしょうか。とにもかくにも、異世界への旅、それは強い効果を持った物語の語られなのでしょうね。詳しくはジョーゼフ・キャンベルの著作などに譲らせていただきます。
「かいじゅうたちのいるところ」も中心は異世界への冒険の話と読めるかと思います。乱暴なマックスが、母親に叱られて部屋に閉じ込められ、そこからかいじゅうたちのいるところへ行って、また帰ってくるというお話。
このような物語の主要なテーマは、広義な意味ではありますが「成長」ということでしょうか。こうして「テーマ」などと言ってみると途端に物語がつまらないものに見えてきてしまうのですけれど、とりあえずの、考える取っ掛かりとして、その物語へ深く入るための入り口として利用してみるのならば、そうつまらないものではなくなると思います。なぜなら優れた物語というのは得てしてそういった「テーマ」などというものを遥かに越えていくものだと思うからです。
ではこのお話で、マックスはどのように成長したのか?彼の何が成長したのか?という観点でまず読んでみたいと思います。
もともと短いお話ですが、要約しますと
いたずらをして大暴れしたマックスが「このかいじゅう!」と母親から怒られ、夕食抜きで閉じ込められる。ムスッとしたまま部屋にいると、だんだんとその部屋に木が生え始め、部屋はジャングルになる。マックスはそこから船に乗って航海し、「かいじゅうたちのいるところ」へ辿り着く。彼はかいじゅうたちのおうさまになり、「かいじゅうおどり」をして遊ぶ。しかし、かいじゅうたちが眠ると、途端にさみしくなり、「とおいせかいのむこう」から流れて来たおいしい匂いに惹かれて、また船に乗って帰っていく。帰った部屋には夕食が、温かいままで置いてある。
というようなお話ですね。これだけを読むと「マックスの一体どこが成長したのか?ただ異世界でかいじゅうたちと遊び倒して、それに飽きて帰ってきただけで成長などしてはいないのではないか」などと読む向きもあるかもしれません。また、ここまで否定的でなくとも「かいじゅうたちのいるところで自分の望むままに遊び倒しても、結局はそのことに虚しさを覚え、自分の一番安心できる場所と母親の作ってくれる食事の大切さを求め帰っていく。つまりはほんとうに大切なものを再認識して元の場所へ戻る成長物語」などと、さっと読むと、こうした印象を受ける人も多いかとも思います。どんな読み方も読み手の自由である部分があると思いますので否定は出来ませんが、自由であるからこそ、もっと他の読み方も可能だと思います。
別の読み方をするにあたって最初に注目したいのは、この本の絵とテキストの描かれ方です。
ひとつひとつ見ていきましょう。
まず一番はじめの絵、マックスがいたずらを始める、というシーンから物語は始まりますが、その絵は四方を大きな余白に挟まれて、この本のなかで一番小さく描かれています。右ページにその絵、左ページにテキストという体裁になっています。
次のページでは絵が少し大きくなります。マックスが家の中で犬を追い掛け回しています。壁には怪獣の絵の下にby MAXとサインの入った紙が貼られています。
その次のページではマックスが怒られ、部屋に閉じ込められています。絵がやはりまた大きくなっています。左ページのテキストでは母親がマックスに「このかいじゅう」と言いマックスは「おまえをたべちゃうぞ」と返しています。
そして次のページでは絵がさらに大きくなっています。部屋の中に木が生えだしていて、その木は絵のフレームから僅かではありますがはみ出しています。
次のページで絵はさらに大きくなり、右ページの余白はとても小さくなっています。まるでこの木がその余白を追いやっているようにも見えます。
そしてページをめくるともう右ページは全面が絵になり余白は消え、部屋もどこかへ消え失せて、森と夜空と欠けた月になります。
次のページではマックスが船に乗っています。絵は右ページだけでは飽き足らず、左のテキストだけであったページにまではみ出しています。
次のページも航海中で絵はさらに左ページへの侵食を続けます。
その次のページで「かいじゅうたちのいるところ」へ上陸する場面です。絵はもう左のページの端までたどり着き、テキストは下部に新たに作られた余白部分(「かいじゅうたちのいるところ」の地面の下です)へ移動しています。
次のページはマックスがかいじゅうたちに向かって「かいじゅうならしのまほう」を使う場面です。下部に移動したテキスト部分の余白はさらに圧迫されます。
次のページではマックスがかいじゅうたちの王様になって「かいじゅうおどりをはじめよう!」と命令している場面です。下部の余白は一層小さくなっています。
そして次のページ、かいじゅうおどりの場面でついに余白は両ページから全て消え失せ、テキストも消失しています。これが3ページ分(見開きを1ページ換算)続きます。
そしてかいじゅうたちの眠っているページです。マックスが一人だけ起きていいます。下部にテキストと余白が復活し、マックスは寂しくなってやさしいだれかさんのところへ帰りたくなった、と書かれています。
次のページでマックスは船に乗り元来た方向へ帰ります。かいじゅうたちはないて「おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。たべてやるから いかないで」と言います。下部のテキストは更に大きさを取り戻しています。
次のページでは船での帰りの航海中です。余白は下部から左ページに移り、絵は更に小さくなっています。
そして次のページでは左ページ全面余白とテキスト、右ページ全面絵として描かれ、マックスが部屋に着いた場面です。
最後のページでは左ページに1行だけのテキスト「まだ ほかほかと あたたかかった」右ページは全面余白で絵は消失しています(日本語版では右ページに奥付が入ってしまっていますが、現行の原作「Harper Collins」版では右ページは真っ白です)。
このように見ると絵とテキストの関係が対立し緊張関係を持って描かれているのが一目瞭然です。
そしてそれはマックスの想像力、本能的なものと言いますか、そのようなものと絵が同調的に描かれており、その対比するものとして理性的思考というようなものが、テキスト/余白と同調して描かれていると見ることができます。
絵が大きくなっていくのは、まだ自制することのできないマックスの本能的な部分(この絵本の原題は「WHERE THE WILD THINGS ARE」です。ここでいう「本能的なもの」とはこの「WILD THINGS」(意味的には「あばれん坊」ほどの意味ともとれますがここではWILDの部分を強調して読んでいます)をイメージしてもいます)が肥大していく様子を、そして後半になって絵がまた小さくなり、反対にテキスト/余白が大きくなっていく経過はマックスがそうした「WILD THINGS(本能的なもの)」を統べるもの、それを抑制することが可能な者となって(実際にマックスは「WILD THINGS(かいじゅうたち)」の王様になっているではないですか)帰還することを描いているのではないでしょうか。
このように読むと、明らかにマックスの成長が描かれていると読むことが出来ると思います。冒険を通して、子供から大人へと至る過程のひとつの成長が描かれている、と。
でも果たしてそれだけでしょうか?
何と言っても、この作品は日本だけでも累計売り上げは100万部を超え、全世界では1900万部以上が売れている(wikipedia:enより)名作中の名作絵本なのです。
いま解釈したような成長物語だけで、そんなにも多くの人から愛され得るものでしょうか?
先ほども言いましたように名作というものは「テーマ」などというものを大きく越えていくものを持った作品だと思うのです。
そして何より、この作品を既に読んでいる方は、ここまでの解釈を読んでも、この作品の魅力のある一部分しか語れてはいないことを感じていることでしょう。
では一体、他にどんな要素があるのでしょうか?
それが、なんと、まあ、いっぱいあるのです。この短い物語の中に多くの仕掛けが潜んでいると私には思われるのです。その全てに言及することは私の手に余ってしまうのですが、その幾つかにでも触れることが出来ればと思います。
さて、この絵本が絵とテキスト/余白の対比を効果的に使ったマックスの成長物語、というものが基本にあるとしても、次に注目したいのが、このマックスの「名前」なのです。
どういうことでしょうか?順を追って進めていきたいと思います。
まずこのお話ですが、語り手が最初に「ある晩、マックスは・・・」(原文「The night Max wore his wolf suit and…」)と始めるのでこの子供がマックスだとわかります。
2ページ目では壁にby MAXと書かれた怪獣のスケッチが貼られています。
3ページ目で母親が「このかいじゅう!」(原文「WILD TIHNGS!」)とマックスを呼びます。
そしてマックスは旅に出ます。マックスの乗った船の右舷には「MAX」と書かれています。
そしてマックスはかいじゅうたちの王となり、かいじゅうおどりの後、左方向へ引き返して行き、部屋に帰ります。(この絵本は横長の判型で物語は水平方向での移動によって進んでいきます。前半「かいじゅうおどり」まではマックスは右方向へ進んでいき後半は左方向へと帰っていきます)
かいじゅうたちに、マックスは名乗ったりしません。ですからかいじゅうたちも、おそらく彼の名前を知りません。そのため彼のことを「マックス」と呼んだりはしません。そもそもかいじゅうたち「WILD THINGS」に名前などというものはないのかもしれません。
王になった後、マックスは左方向へ帰るのですが、「MAX」の船の文字は右舷に書かれていたために帰り道ではその文字を見ることはできません。
帰り道は、行く道よりもずっと早いのは、当然でしょうか、3ページほどで済まされているのですが、少し不思議なことにそこでは語り手も「マックス」とはもう呼んではいません。原文ではただ「he」となっており(しかもそれも関係詞節として出てくるのみです)、日本語訳では主語が省略されています。そしてお話は終わります。
そもそも思い出してみると、マックスのことをマックスと呼んでいるのは語り手だけです。母親もひとこと「かいじゅう(WILD THINGS)」と言うだけですから。
母親のそのひとことを皮切りに旅は始まるのですが、これは名前の旅としても読めるのではないでしょうか。
かいじゅうの絵に自らの名前を書いたひとりの子供が、「かいじゅう(WILD THINGS)」と名前のないものとして名指しされ、自身の名前の入った船で「WILD THINGS」へ赴き、名前のないものの王となり、やがて船に書かれた名前も消えて、もう誰も(語り手さえも)彼の名前を忘れてしまう。
これは一体どういうことなのでしょうか?
「絵」と「テキスト/余白」の対立物語、そしてその「テキスト/余白」であるところの理性的思考の勝利という成長を手にした物語であるはずなのに、彼は、名前を失っているのです。
マックスは一体、何者になったのでしょうか?
ここで個人的にはこの絵本と非常に相性が良いと感じられる一冊の本を挙げたいと思います。西川アサキさんの「魂のレイヤー」という本です。
この本の第一部第四章、特にp70「認知バイアスと山中カクテル」以降〜四章終わりまで、はこの絵本と照らし合わせながら読むと、非常に示唆的と言いますか、この絵本の読み方を拡げられるように感じるのです。
ここで西川さんは、幼児の言語獲得に関連する「バイアス」という概念を紹介しています。
「ここでは「バイアス」という言葉を、形式論理的に正当化できないような推論、というような意味で使おう。たとえば「『雨が降った』ならば『路面が濡れている』」を知っている時、「『路面が濡れている』ならば『雨が降った』」と推論してしまうのは「対象性バイアス」と呼ばれる。
よく知られた幼児期言語獲得バイアスとしては「事物全体バイアス」「事物カテゴリーバイアス」「形状類似」「コントラスト原理」などがあるという。 事例を見た方がわかりやすいだろう。幼児が言語を獲得していく姿を想像してみる。幼児にとって、世界は事物と、それに対して大人が発する「ラベル」で溢れている。幼児はなんとか形容詞や固有名詞などの文法的用法を獲得し、圧倒的速度でラベルを獲得していく成長期にある。
しかし、問題がある。大人の与えるラベルは、ラベル自身に「部分用」や「全体用」などのコメントがついている訳ではない。なので、たとえば「見たことのないもの」に、「知らないラベル」がつけられた時、子供はそれを、「見たことがないもの」全体の「名詞的」ラベルなのか、それとも、そのある部分的属性(色や触った感触など「形容詞的なラベル」)なのか区別する方法がない。偏見のない幼児は途方に暮れるだろう。だが、実際にはその心配はない。幼児には偏見(=バイアス)がある。ここで役立つバイアスは「事物全体バイアス」と呼ばれ、このような状況では子供は新しいラベルを、事物の属性ではなく全体の名前とするバイアスを持つ」p71
続いて西川さんはパウル・ツェランの詩を引き合いに出しながら事物カテゴリーバイアスや相互排他性、形状類似を説明していきます。これらのバイアスをツェランの詩と対応させているのです。
こうした幼児期言語獲得バイアスと同調する(=幼児期へと退行する)、もしくはバイアスを「制止」することによって、詩作品が効果を上げていることを説明します。
「いずれにせよ、詩才の一部は幼児が未知の事物と言葉に対して持つ態度を、成人になってもキープできることかもしれないという気がしてくる。逆に言えば普通の成人は、大人になる代償として「幼児の問題」を失う」p78
次に西川さんは詩人の「退行」能力からの連想としてiPS細胞の話をします。
「iPS細胞とは、成体の通常細胞に「山中カクテル(ファクター)」と呼ばれる、ある特定の遺伝子(ファクター)の「組み合わせ」を導入することで、既に分化してしまった細胞に、「(ほぼどの細胞にも分化できるという意味での)万能性」を復元させた(=初期化)細胞だ。要するに既に分化したものをリセットするテクノロジーである」p78
ここからさらに精神分析の「退行」へと話は進みます。
「興味深いのは、分析のプロセスで起きる「退行」や「転移」といった、分析家とクライアントの間に起きる二人称的な現象だ。
「退行」を経験したことがないのでわからないが、文献を読む限りそれは、治療過程で現在の人格ヘゲモニーが、過去の人格に奪われてしまい、結果として子供や幼児のように振る舞うこと(退行)、もしくは感情的に過去の親子関係を、精神分析家との関係に投影して反復する(転移)というような現象のようだ。
「退行」ということばの一般的イメージは悪い。それは大人が克服した幼児期の各種バイアスを復元してしまうことや、状況に応じた仮面の使い分けを放棄することを含意するからだろう。だが、退行は一種の「初期化」であり、だからこそ、ある種の未分化性、そして、「万能性」を復元するのではないだろうか?」p80
ここまで読んでいただければ私がこの西川アサキさんの著作を、どのように「かいじゅうたちのいるところ」に当て嵌めようとしているのかがわかったかと思います。
「幼児言語獲得バイアス」「iPS細胞」「精神分析における退行」この三点からの類推により、この絵本においてマックスが「名前(意味を広げれば「ラベル」)を失う」という出来事はある種の「退行」、そして「初期化」の作業であるとも言い換えられるのではないでしょうか?そうするとこれは単なる「成長」物語ではなく、人間の「退行=初期化」の物語なのだと読めるのです。
この絵本の要約を繰り返します。
かいじゅうの絵に自らの名前を書いたひとりの子供(そもそもこの子どもの名前(MAX)も不思議な含みを感じさせる名前でもありますが…。maximum/極大)が、「かいじゅう(WILD THINGS)」と名前のないものとして名指しされ、自身の名前の入った船で「WILD THINGS」へ赴き、名前のないものの王となり、やがて船に書かれた名前も消えて、もう誰も(語り手さえも)彼の名前を忘れてしまう。
思うがままに適用し読んでみたものの、「初期化」し名前を失ったその子どもは一体どうなったのでしょうか?
西川さんは同著作でこうも言っています。
「私見では、アナロジーは限界まで続けるべきだと思う。そうしないと、齟齬やアナロジーの限界が露呈する場所がはっきりわからないからだ。それはパフォーマンスとしては「なんとなくアナロジーを感じたまま」という、まさに「アナロジーを限界を知らずに適用した状態」を温存することになってしまう」p99
先を続けましょう。
この絵本を「退行」の物語として読むとしても、腑に落ちない点があります。この物語は「テキスト/余白」と「絵」の緊張関係のうちに物語が展開していくお話でした。この子どもは確かに名前を失ったかもしれませんが、物語の最後にはテキスト/余白が勝利を収めている(絵を制圧している)のです。
既に述べたように「テキスト/余白」を理性的なもの「絵」を本能的なものすると、最後には理性的なものが勝利を収めているので、このお話を「退行」の物語として読んでしまうと、理性的なものが勝利しているのに「退行」している。という奇妙な結論になってしまいます。これは既にこのアナロジーの限界を示しているのでしょうか?
ところで、そもそも私は「テキスト/余白=理性的なもの」として提示していましたが、この物語の最後は白紙(全て余白)で終えられています。お話の始めからテキストと余白は同調して動いているように見えたので同一視していましたが、これは間違いだったのかもしれません。とすると最後にはこのテキスト/余白が分離して余白のみが勝利を収めている、と読むことも出来そうです。
それではこの余白とは何なのでしょうか?退行した場でも尚残る理性の残り滓?それとも理性や絵が置かれる基本的な場?はっきりとはわかりませんが、この絵本作品に「退行」というものが持ち込まれているにしても、その全てをやり直している(そうすることができる)と言う提示のされ方は、なされていないとは言えそうです。
余白というと、西川さんの同書では「塗り残し」に関する記述もありますので引用してみます。クリムトに関する「小説」という体裁で書かれたものです。
「(前略)塗られたパターンと、塗り残しの並置は意図せざる完成のようだ。セザンヌの塗り残しのように。もはや輪郭を介して相互浸透する両義的な図と地ではない。(中略)塗り残しというものは、どの絵でも似ている。真に破壊できない絵の真空とは、塗り残しなのか」p252
もう一点注目してみたい点があります。それは月についてです。
月を見ながらもう一度物語を追ってみましょう。
月がはじめて描かれるのはマックスが部屋に閉じ込められた絵からです。部屋の窓が開け放たれていて、そこに月が煌々と輝いています。
その絵の月は三日月と言いますか、ちょっと変な描かれかたをしているのではっきりと言えないのですが、欠けている月です。(見ようによっては月食中の月とも見えるかもしれません)
そこから数ページ欠けた月は続き、航海中は夜ではないようで月は見えません。ところで、この航海の場面の、テキストのリズムの素晴らしさには目を見張るものがありますね。
「いちにちすぎ いっしゅうかんすぎ いちねんと いちにち」
しかしかいじゅうたちのいるところに辿り着くとまた欠けた月がのぼっています。(この月は欠けていますが先ほどの部屋から見えた月とは少し違って見えます。月食のような影で欠けているのではなく、しっかりとした三日月に見えます)かいじゅうならしの魔法を使う場面です。
次のページのマックスが王になる場面でもまだ月は欠けていますが、かいじゅうおどりの場面、「絵」が「テキスト/余白」を全て侵食し、ページを丸々埋める場面において、突如として、月が満月になります。(かいじゅうたちは皆その満月を見上げ、マックス一人だけ満月を見ていないのも気にかかります)
その次のページからは月は描かれていません。次に月が描かれるのはマックスが帰りの航海をする場面です。月はここでもまだ満月です。(しかし先ほどの満月とは少し描かれ方が違います。先ほどの満月は、静かな光を灯した神秘的な雰囲気の満月でした。しかしここでは輪郭がぼやけ、マックスの帰り道を照らす明かりの役割をしているかのようです)
そして絵がある最後の場面、マックスが部屋に帰り着いた場面でも、開け放たれたままの部屋の窓には満月が昇っているのです。この満月はまた、先ほどの二つの満月とは違い、一番不気味な満月です。物質的というか、あまり輝いていません。
何故最後の場面においても月が満月なのでしょうか?
かいじゅうたちのいるところへの旅を「異世界への旅」と読む読み方は一番最初に提示しました。そうするとその「異世界」に到る旅路が一年と一日、と語られているように、時間の観念が現実の時間とは違う流れ方をしているのは明らかです。こうした場合、帰還した際の現実の時間はほとんど経っていなかった(もしくは浦島太郎的な、逆パターンでものすごい時間が流れていた)などという処理をされるのがよくある型だと思います。
この話でも、最後の場面で、食事がおいてあって、それはまだ暖かかった。と語られていることから、現実の時間はあまり経っていなかったと考えられます。
しかし、ある意味では時間を指し示しもする月が、変化してしまっているのです。これは何を意味するのでしょうか?「かいじゅうたちのいるところ」の時間が現実(「かいじゅうたちのいるところ」と対としての)の方へ飛び越えて付いてきてしまったのでしょうか?
とにかく「時間」と限定するのではなく、何かが、何かを連れてきてしまったのは確かなようです。連れてきてしまった、というと少し違うニュアンスを含んでしまいますので、帰って来た現実の何かが変わった、という感じでしょうか。
ともかくこの月は、始まりと終わりにおいて明らかな変化が見られる部分であるということに間違いはありません。
満月を退行の象徴と見ることも、iPS細胞からの類推で出来るかもしれません。
分化(欠けた月→充足しないもの)、未分化(満月→すべての可能性を含むもの)
物語の展開と「月の満ち欠け」「テキスト/余白と絵の対立」を簡易化して作図してみました。この絵本の運動が幾つもの方向を向いていることを示す一端と理解出来ると思います。
ここまで、思うがままに西川アサキさんの著作を引用、利用してきましたが、その「魂のレイヤー」第一部第四章「「社会の社会」、カップリングを要素とするシステム、記述の根拠 自身の死を悼むシステム」は社会システム論から始まり、西川さんが提示する中枢というシステムモデルを展開しつつ、引用した箇所を始め様々な要素を取り込みながら、ネオサイバネティックスの思想家たちを通過し、最後には「死」に向き合う人間について述べ論を結んでいます。
「我々は他人の死を悼むことは出来る。しかし、それを「自分の死」として体感するのは難しい。しかしその「自分」が次々に交代することを体験し続けた人(引用者注:初期化=退化を何度も行った人間)は、「自分の死」を「他人の死」のように感じることができるかもしれない。そして、他人の死を悼むように、未来にいる自分の死を悼む。この態度は「自分の」死に関する恐怖への処方箋となりえないだろうか?(中略)自分と「悼み」という関係で繋がっている交代する自我群を考えられないだろうか?(中略)「交代していく自己に対する、悼みの連なりを接続の原理とするシステム」という奇妙なモデルがあっても良い。そのシステムには、死を恐れ、矛盾を糊塗する孤独な中枢の永続、及びその唯一の死とは違う、形の限定から逃げ続けるような生命のあり方への予兆がある」p100(太字は引用者による)
太字強調しました部分「形の限定から逃げ続けるような生命のあり方への予兆」この絵本「かいじゅうたちのいるところ」を読んでいると、そのようなものが見える気がするのです。
名前を失う子ども、満ちる月、折り返される旅、かいじゅうたち…。
最後に、ひとつ気に掛かることがあります。
この絵本の表紙を見て下さい。かいじゅうが一匹、眠っています。空には満月があります。かいじゅうの向こうに川か海かがあり、その向こう岸にマックスが乗っていた船とそっくりの船が停泊しているのです。
しかし、その船は右舷をこちら側に向けているのにも関わらず、MAXの文字が見当たりません(!)。これはマックスの船なのでしょうか?マックスの船ならば、いつのマックスの船なのでしょう?マックスは家へ帰ったのではなかったのでしょうか?(かいじゅうたちのいる岸ではないにしても、そこから視認できる場所に船は停泊しています)
物語を読んだ後に本を閉じ、この表紙を見るといつも、不思議な気分になります。ずっと遠くの、未来でも、過去でもあるような、自分の一生が終わった後にまだ、自分のいない世界を見続けているようなそんな不思議な気持ちになるのです。
この感覚は先ほどの「自分の死を悼む」ということと遠く、響き合っているのではないでしょうか?
ずっと遠いところにいるもうそこにはいない自分と、密かに繋がっている。そんな不思議な感覚をこの絵本は私にもたらしてくれるのです。
1しゅうかん すぎ 2しゅうかん すぎ、
ひとつき ふたつき ひが たって、
1ねんと 1にち こうかいすると、
かいじゅうたちの いるところ
and in and out of weeks
and almost over a year
to where the wild things are
只今、当店在庫商品には映画化記念の際のポスター付き限定版があります。
こちらからどうぞ「WHERE THE WILD THINGS ARE」
西川アサキさんの「魂のレイヤー」はamazonではこちらです。
ヒントに満ちた大変面白い本ですので、ご興味が湧いた方は是非読んでみてください。
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