ささめやゆきさんによる宮沢賢治の絵本「ガドルフの百合」
不思議に凛としたタイトルと、ささめやさんの美しい表紙が印象的な絵本です。
宮沢賢治の絵本というと幅広い年齢に親しまれるものだと思いますが、これは完全に大人向けの作品だと思われます。(しかしこうした決め付けは良くないことかもしれません)
「ガドルフの百合」がどんなお話か知っている人は、あまりいないのではないでしょうか。宮沢賢治の作品の中ではあまり有名なほうではないかもしれません。
ひとりの旅人ガドルフが、誰もいない道を歩いています。次の街は見えませんし、木々が並んでいるだけです。すると段々と雲行きが怪しくなり、雨が降り出します。たちまち嵐となり、ガドルフは道の脇の空き家に逃げ込みます。
稲光が室内にまで明滅する中、彼は家の中を歩きまわります。
誰もいないのだろうか、ここは寄宿舎か、避病院か、そんなことを思いながら建物の中を回っていると、その稲光の硝子窓の向こうに、白いものが五つ、六つ見えます。窓を開けてみても、風と雨で見えません。彼は挨拶をします。
どなたですか、今晩は。
その時また雷が光り、それは百合の花だとわかるのです。彼は挨拶などしてしまった自分を笑います。笑い声は虚しく響きます。
「・・・窓の外では、いっぱいに咲いた白百合が、十本ばかり息もつけない嵐の中に、その稲妻の八分一秒を、まるでかがやいてじっと立っていたのです」
雷光が消えるとまた百合は闇の中へ戻されてしまいますが、彼は窓から外に体を出して、次の雷を待ちます。
「間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃いて、庭は幻燈のように青く浮かび、雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋って立ちました」
(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ)
長くなってしまいました。
お話はこの後、少し奇妙な展開をしますが、その後、雨は上がり、またガドルフは道を歩き出して終わります。
不思議な感触を残すお話です。手法的にはメタファーの響き合いの妙を使った、純文学(そういうものがあるとすれば)の短編小説でしょうか。
この百合は一体何なのだろうか?この「おれの恋」とは一体何なのだろうか?(恋愛の話など一切このお話の中に出てきません)当然そういった疑問は思い浮かびます。
その二つに限らずとも、この短いお話の中には不思議なものが幾つも出てきます。「曖昧な犬」「豹の毛皮の男と鳥の王のような真っ黒な男の戦い」「南の蠍の赤い光」
人によってはもっと違った言葉に気を留める人もいるかもしれません。
ですがそのそれぞれにどんな意味があるか、そんなことを分析しても、このお話の魅力をきっと語れはしないでしょう。
感じるのは、宮沢賢治の使う言葉の色合いや響き、それは勿論単独のものではなく、遠く<メタファーという手法の中で動く意味>の響きも含まれていて、それぞれが混ざり合い層をなして、読むものに固有な感触を与えてくれます。
勝手な想像でもありますが、万葉集に
灯火の光に見ゆるさ百合花 ゆりも逢はむと思ひそめてき
そして
さ百合花後も逢はむと思へこそ 今のまさかもうるはしみすれ
という歌がありますが、この歌も、このお話と何処か響きあっている気もします。古来より百合の花と恋は親しい関係だったのでしょう。
雨の上がった夜の道をガドルフは再び歩き出します。
「おれの百合は勝ったのだ」最後にそう言うガドルフの「百合」を、何か情熱や、信念のようなものと読み替えても良い気がしますが、それだけではきっと足りないでしょう。
最後のページでまた歩き出したガドルフを描くささめやさんの絵は、月星々に照らされ、鮮やかで深い青の夜に向かって歩くガドルフの後ろ姿です。
静かな感動が湧き上がってきます。
恋、情熱、不安や恐怖、そして孤独。まだ言葉が少ないかもしれませんが、ガドルフの背負う背嚢に、そうした人が人生で感じる情緒のすべてが詰まっているようにも見えます。
結局最後までまとまりのない文章になってしまいました。この絵本の魅力の一端でも伝わったならば嬉しいのですが。
宮沢賢治の匂い立つような言葉が、ささめやさんの絵でいつまでも消えないイメージとして残る、とても美しい絵本なのです。
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