鳥影社より出版されていた「ローベルト・ヴァルザー作品集」の5巻が先日刊行されて、この作品集は完結を迎えました。
1巻(2010年刊行)のあとがきには今後2年間の予定で全5巻を発売予定、と書かれていますが、2015年の今年に5巻が発売されました。こうした文学系のシリーズ刊行ものにしては2年の予定が5年で出版、などは早いほうの気がしますね。兎にも角にも、このような魅力的な作品集を刊行して下さった訳者並びに編集者、関係者の皆様には多大な感謝と、尊敬の念を覚えます。ありがとうございました。
さて、このローベルト・ヴァルザー(1878-1956)というスイスの作家ですが、日本ではあまり知名度の高い作家ではないのではないでしょうか。
それに比すると欧州諸国では当時から評価は高く、ヨーロッパ各国語に主要作品は翻訳され、その文学的な評価は確立されているようです。カフカ、ムージル、ベンヤミンからゼーバルト、クッツェー、ソンタグまでがその作品を評価する言葉を残していると言えば、文学愛好家からすると非常に興味を惹かれることと思います。
かくいう私も、名前は知っていたものの、その作品を読んだのはこの「ローベルト・ヴァルザー作品集 1」が初めてでした。そしてまだ、この1巻の「タンナー兄弟姉妹」という処女長編のみしか読んではいないのですが。勉強不足で申し訳御座いません。
まだ1冊しか読んでいない者がその作家について多くを語ることなどとても恐れ多いので、出来るわけも無いのですが、この1冊からだけでも、この作家の特異性ははっきりと感じられると思います。
「タンナー兄弟姉妹」は主人公のジーモンという若者が職を転々とし、放浪したり寄生したりしながら生きていく、というだけの小説です。
それで、どういった部分が特異であるか?と言うと、この小説のほとんどすべてがジーモンをはじめとした各々の登場人物の独白と風景描写だけで成り立っているという点です。
まずこの「独白」ですがとてつもなく歪で、この小説の中で人物と出会うやいなや、ジーモン、もしくは相手が、つらつら延々と、彼/彼女の心情、洞察、思想を何の前振りもなく滔々と語り始めるのです。
ここですぐに想起されるのはドストエフスキーでしょうか?しかしドストエフスキーには各々登場人物の独白の長さ、異様さがあるにしても、会話である場合は会話の体裁は保たれている(対話が存在している)のですが、この作品においては「話すこと」が会話であることに、全く目を向けられていないようです。ほとんどの場合、ただただひたすらひとり喋り続けるのです。このように言うとベケットを感じさせもしますね。
しかし、ヴァルザーにはこの「喋り」だけでなく、風景描写があります。(ベケットではどうだったでしょうか?ベケットにおいては情景描写のイメージはありますが、風景描写は余りなかった気がしますね、、今度再読する際は気にして読んでみたいです)
ヴァルザーの風景描写は、彼の住むスイスの自然が多大に影響しているとも思われます。何処かチェーホフのような感じもしますが、少し違う感覚です。
自然の中にいる人間が、自然に対して開いているような、不思議な目で風景を見ています。自然と人間の結びつきが露わに、少し過剰に、極彩色で描かれているように感じるのです。この自然への言葉の使用にこの作家の不思議さが垣間見れます。
こうした「喋り」と「風景描写」だけでほとんど構成されている小説ですので、読んでいる最中に、何度も「変な小説だなぁ」と唸ってしまいました。
勿論「変な小説」というのは良い意味で使っている言葉です。
変な小説であればあるほど、その小説について考えることがたくさん出来ます。小説を読んでいる時、それに伴ってその小説について考えている時、読みつつもそれから離れてその小説と遠い響きの中でもの考える時、そんな時が小説を読むことの幸福だと思っています。
色々小説を読み続けていると、その「変」のハードルがどんどん上がっていってしまうので、普通の小説、というか「小説」という枠に嵌ったものばかりだなあと思ってしまうことが多くなるので、このヴァルザーの小説の変さには吃驚しました。
読んでいる時にはカフカとベケットを繋げる作家と考えていましたが、カフカとほとんど同時代人なのですね。寧ろヴァルザーの方が少し年上なのですね。その点も興味深いです。
もうひとつ興味深いと感じたのは、この小説の中に何度か出てくる「メルヒェン」という言葉です。あとがきでも指摘されていますが、最後の章でその「メルヒェン(童話)」自体が語られている点にも何だか感じる部分があります。ムージルの「三人の女」の「トンカ」においてもメルヒェンという言葉が出て来るのですが、それと響き合わせて考えるのは、幾ら何でも恣意的でしょうか。
最後にこの小説の一番美しいと感じた部分を引用させてください。そんな部分を引用してしまうとこの小説を読む楽しみが減ってしまわれるでしょうか、どうなのでしょうか、、、。
ジーモンが山中の雪道を歩いている時に、男が雪の中に倒れているのを見つける。彼は死んでいた。顔を見ると姉の恋人であった詩人のゼバスチャンであった。彼の胸のポケットには詩が書きつけられた紙切れが入っていた。
「この男はなんと気高い死に場所をさがしあてたことだろう。雪をかぶった緑の樅の木の大木のただなかに彼は横たわり眠っている。僕はこのことを誰にも言わないだろう。自然が死者を見下ろし、星々が頭上で幽かに歌い、夜の鳥たちがくぐもった声で鳴き、それが聴覚も感情ももはやもたぬ者にとって最上の音楽となる。ゼバスチャン、僕は君の詩を編集者のところへ持って行こう、もしかすると誰かの眼にとまり、印刷に回されるようなこともあるかもしれない、君の哀れな、きらめく、美しい名前だけはこの世に残り響くように。なんと素晴らしい安息だろう、こうして樅の枝に覆われて、雪の中で凍り横たわるというのは。これこそ君に出来る最善のことだった。世の中は君のような変わり者を痛めつけては、その苦しみを嘲笑うものだ。地中に眠る、物言わぬ、愛しい死者たちによろしく伝えておくれ、そして、非在という永遠の炎に焼き尽くされてしまわぬように」
まだまだ私はこの作家の仕事のひとつにしか触れてはいませんので、これから残りの4巻そしてまた以前よりみすず書房などより刊行されていたヴァルザーの他の著作も読んでみようと思います。まだ読んでいない本がそこにあるという幸せは、なにものにも代え難い喜びでもあります。
長文、読んでいただきありがとうございます。
当店は古本屋ですので、ローベルト・ヴァルザーの著作、お持ちでしたら、高価買取りさせて頂きます。ぜひご相談ください。宜しくお願いいたします。
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