長新太さんの絵本を読むといつもふたつの感情が湧き上がってくる気がします。
ひとつは「孤独」そしてもうひとつは「楽しい」ということです。
この長新太さんの「孤独」についてはまた別の機会に書きたいのですが、何よりも長新太さんの絵本って、とても「楽しい」んですよね。
この荒唐無稽な絵本たちの何が楽しいのか、全然意味がわからないのになぜ楽しいって感じるのか、よくよく考えてみると不思議なものです。
このとってもへんてこなお話なのに愛さずにはいられない絵本「くつしたがにゅー」のあとがきに、日本女子大学の高橋種昭先生が解説を書いています。
少し長くなってしまいますが引用をさせて下さい。
「何故子どもが靴下に興味を示すかというと、そのものが使い方によって色々に変化するからです。大人のように靴下は靴下としか見ない捉え方は幼児の場合にはありません。幼児期は想像時代と呼ばれていますが、彼らの夢はひとつのものから果てしなく広がってゆきます。絵本もそうした想像時代の子どもの夢を満たしてくれるものが適当なわけです。絵本は教科書ではありません。子どもがそれから何を感じても良いのですし、どのように夢を発展させてもかまわないのです」
これは子どもに絵本を与える大人に向けて書かれたものですけれど、大人が自身の楽しみで「絵本を読むこと」の答えの一つになっているような気もします。
長新太さんの絵本は大人の固定観念を打ち破ってくれます。
打ち破ってくれる、といよりも、それをぐにゃぐにゃのふにゃふにゃにしてくれます、なんて言ったほうが近いニュアンスかもしれません。
普段考えもしなかった方向へお話は進んでいくので、使っていなかった頭の部分が解きほぐされて、脳の体操をしているような気分にもなります。
そしてその「使っていなかった部分」というのはきっと、子どもの頃にはあった、無限の想像力の部分なんだと思います。だからでしょうか、長新太さんの絵本には何処か懐かしさも感じるのですね。
長くなってきてしまいましたがもう少し続けさせて下さい。
「荒唐無稽」や「意味不明」なだけで「子どもの想像力」と似たものになるかと言ったら、全くそんなことはありません。
長新太さんの絵本を優れたものにしているは、その「意味不明」な感じの中にもこちらには認識できない論理性があるように感じるからなのではないでしょうか。
例えば長さんの作品のほとんどは時系列がはっきりしています。これは長さんの作品を考える上で重要な要素のひとつとも考えられます。
恐らくではありますがこの感覚、一見無秩序に見えるけれど、こちらにはよくわからない因果律があるようにも感じる、というような感覚は、茂木健一郎がダ・ヴィンチの作品について言った「起源の隠蔽」、そしてジャック・デリダがカフカの掟の門前について言った「到達不可能性」と言った概念に近いものであると思います。
話が段々と込み入ったものになってきてしまいましたのでこの辺で。
さて、この絵本「くつしたがにゅー」なのですが、お話はと言うと、ちいさなひよこちゃんが、くつしたを見つけて、なんだかんだと遊ぶお話です。何故か最後にはくつしたは猫ちゃんの腹巻きになっていっしょにお休みします。。。
すごいお話です笑
実は当店で一番在庫のある作家さんは長新太さんの絵本なんです。50冊近くあるかと思います。偏愛している作家さんですので、ついついいつも仕入れてしまいます。中には珍しいものも幾つかありますので、是非この機会に如何でしょうか。
当店在庫はこちらです。
「くつしたがにゅー」長新太 岸田衿子
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