本の倫理/道具ではない本というものについて

こんばんわ。

昨日読ませて頂いたinstagramの「ayutjin」さんの投稿(7月15日の投稿)が、自分も以前から同じようにずっと思っていたことを書かれていたので、そのことを少し書かせてください。

ayutjinさんはとても丁寧に説明されているので、話の詳細は投稿を見て頂きたいのですけれど、自分がずっと以前から感じていたのは、本や絵本を、しつけや教訓の道具として使うことを、あまり豊かなこととは思っていないということです。

本をそのように使うことで、子どもによっては、他のどんな手段よりも上手くいく場合もあると思いますし、寧ろ、そうした道具であることを目指した本も世の中には数多く出ていることも確かです。

けれど自分は、そうした本は豊かな本ではないと思いますし、本との豊かな付き合い方じゃないと思うのです。

そしてそれは、本に対して、またその本を作った作者の方々にも失礼だと思っているのです。

自分は多分、多くの人よりも(多くの同業者よりも)、このことにとても敏感です。

本というものに対して、尊敬と言うものを超えて、畏敬の念のようなものさえ抱いています。

本を作ったり、売ったりする本のプロの人達の中にも、そうした本への思いが薄いのではないか?と感じることも、自分は、実はとても多いです。

本への思い、それを道具として使ってしまうことのやましさを感じていないのではないか、と思うようなことが、とても多くあります。そうした本への倫理の欠落もしくは過小評価が、同業だととても気になってしまいます。

(この「やましさ」については、チェーホフの短篇「家で」(チェーホフ全集4巻収録 松下裕 訳)という小説の中に自分の感じる「やましさ」がとても似た感覚で書かれています。タバコを吸った幼い息子に、例え話をして、子どもがタバコを吸うのは良くないことだ、と教える、その後で、その父親がその「例え話で子どもをしつける」と言う行為に違和感を感じる、と言うお話です。)

ここまで書いて、少し整理したほうが良いのかな、と思いましたので改めて書かせて頂きますが、自分はこの文脈では二種類の「本」について書いています。

道具として作られた「本」と、そうではない何物かである「本」です。

道具として作られた本を、道具として使うことには何の文句もありません。

ただ自分は、その本を「本」とは呼びたくない気持ちはありますけれど。

そうではない本。

物語があったり、詩があったり、歌があったり。

喜びや悲しみが、風景や心があり、世界がそこにある本。

自分はそうした本を愛していますし、そうした本の中にあるものの中から、そうした本が含んでいるすべてのものの中から、できるだけ多くの空気、色を、感情を吸い込みたいと願っています。

それは子どものための本だって同じことです。

そもそも子どものため「だけ」の本なんてありません。

フランスの児童文学の編集者、フランソワ・リュイ・ヴィダルは

「子どものための芸術はない。芸術があるのだ。子どものためのグラフィスムはない。グラフィスムがあるのだ。子どものための色彩はない。色彩があるのだ。子どものための文学はない。文学があるのだ。この四つの原則から出発すれば、全ての人にとって良い本が、子どもとっても良い本になる」(「フランス児童文学への招待」末松氷海子)と言っています。

なんだか厳しいことを言っているように聞こえてしまうでしょうか?

そんなつもりは全然ないのですけれど…。

本というものに携わる仕事をするひとりの人間としてただ、多くの人に本を好きになって、より深く愛してほしいと思っているだけなのです。

子どもからでも、大人からでも、豊かな本の世界へ入っていって欲しいと考えているので、出来るだけそうした豊かな本と、多くの可能性をもつ本と、触れ合ってほしいな、と思っているのです。

長々と書いてしまったものを、読んで頂きありがとうございます。

最後にもうひとつだけ。

今回の投稿は自分はayutjinさんの投稿に共感する形で、記事を書かせていただきましたが、自分はこの「共感」ということをあまり重要視していません。

共感が、不寛容に、排他的なものの種になってしまうことをとても恐れています。

ですから、今回自分が展開したような論理に批判的な、例えば「道具としての本」を尊重する意見をお持ちの方のお話も聞きたいと思っていますし、そうした意見を尊重したいとも考えています。

ただ自分の仕事として、そうした本を紹介する、ということは無いとは思いますが…。

本当に長々と、ありがとうございました。

明日はちゃんと本の紹介をします!

それでは失礼します。


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