マリー・ホール・エッツの絵本を読むときにいつも思うのは、その絵本の中には小さなものたちに対する、優しいまなざしが溢れていると言うことです。
「小さなもの」と言うのは、動物や虫や植物、そして勿論子どものことです。
絵本も、言葉で語られている以上は、小説と同じようにそれが誰の声であるのか/誰によって語られているのか、という問題がいつもそこにあるのですが、エッツの絵本の中の語り手は、子ども自身の語りではなく、それを見つめる大人の語りとも少し違うんですね。
もう少し離れているようで、けれどいつもそこにある、そんな声なのです。
この「おやすみ、かけす」も、そうした優しい声の語りで、虫や動物たち、そして子ども、その子どもをあやす大人たちまでをも包み込んでいます。
単調な展開、シンプルな言葉のリズムでありながらも、まるで世界のすべてがそこにあるような気さえ起こさせてくれるのは、この語りに秘密があるのだと思います。
すべてのものが等しくそのまなざしに触れ、ただそこにいることを肯定される。こんなにも美しいことがあるでしょうか。
もう一つ、この絵本が読み手にその語り手によるまなざしを意識させるのは、その声によるものだけではなく、エッツの絵にもあると思うのです。
というのもこの絵本の絵は、すべて同じ型(同じくらいの大きさの、横長の楕円の中に様々な「小さなもの」が描かれています)で描かれているのですが、その「型」が、まるで目の形のようなのです。
真っ暗闇のなかで、開かれた目に映ったものたち。
そう言うよりももっと、別の世界から覗いた目の窓のようと言ったほうが良いでしょうか。
もっと進めて言ってみると、その不思議な目に映ったものを、わたしたちが見ている、というような感覚が一番近いかもしれません。
だからこの絵本の絵は、その語り手による、その瞳に映ったものたちであると、そう感じられるのです。
小さなものたちをひとつひとつ、何の不足も、過剰さもなく、ただただ肯定し見つめるまなざしと、声。
この絵本を読んでもらう子どもたちはその声に、そのまなざしの中にあることに安心し、そしてこの絵本を読む大人たちは、この大きなものの声を借りて、小さなものたちを包み込む事ができるのです。
わたしたちが小さなものであったことを、懐かしく思い出しながら。
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