その不思議な感じは、バージニア・リー・バートンの最後の作品「せいめいのれきし」で顕になるのですが、この時を越えて愛される傑作「ちいさいおうち」にもその全ては刻まれているように感じます。
この絵本を読む度に思うのは、ここには目には見えないはずの「時間」というものが刻まれていると感じるのです。
大袈裟に言うならば、それは永遠とでも言うことができそうな、人の手には負えないようなもの、それがこの絵本に、この絵本の中のちいさいおうち(人間の手に届くもの)を通して描かれていると思うのです。
この絵本の中に永遠の断片は、そこかしこに刻まれています。
表紙のその絵から、その絵の向こうにある円そして螺旋といった宇宙的なものを感じずにはいられません。
ちいさいおうちの両脇のりんごの木は、それぞれが銀河の形のように描かれ、とり囲むヒナギクは、星の運動を表している図のように見えもします。
ページを開けばそこには幾つもの銀河が重なり合ったかのように、螺旋の形が細部にも、そして大きな構成としても、どこにでも見ることができます。
この絵本のお話も、時間のお話です。
人の一生の何代もの、時間を越えた家のお話。
個人的な感想ですが、この絵本を読む時に感じる少しだけ寂しい感じは、都市化され、変わっていく街の風景が寂しい、というよりも、そうした変化をともうなう大きな時間の中で、ひとりの人間が感じることの出来る時間が、あまりにささやかなことが寂しい、そのことだと思うのです。
この絵本の中で人間はある個性を持った人物としては描かれていません。
個性を持って描かれているのは、ちいさいおうち、そしてもうひとつ挙げるならば「街」くらいでしょうか。
ですからこの絵本の視点は、何処までも人間よりも大きなものに寄りながらも、けれどもあまりにささやかな存在である人間からも離れることができない、そうした両方向の運動、視点を感じるのです。
またまた個人的な感想を続けてしまいますが、この絵本の寂しさは、種田山頭火の「まっすぐな道でさみしい」というあの句と何処か響き合っている部分がある気がしたりもします…。
一瞬と永遠、点と無限、そうした引き裂かれつつも繋がっている、不思議な円環(または繋がっているように見えて繋がってはいない、螺旋)その中心に描かれるちいさなおうち、これは、ひとりの人間が越えることのできない時間を、その時間描くことによって、絵本がその「時間」を乗り越えることのできた(作者の死後も数多くの人々から愛されている)美しい絵本だと思うのです。
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