クラウスがうたうとき、センダックのふでがおどりだす
「はなをくんくん」などで日本でも多くの人に親しまれているルース・クラウス。
彼女の書くおはなしは節のあるリズミカルな文章で綴られたものが多く、それらはまるでうたうように、流れるように語られます。
それはたとえば、落ち葉が風にのって、くるくると運ばれていくかのように。ことばが軽やかに踊るのです。
『あなはほるもの おっこちるとこ』
タイトルを聞いただけで思わず笑みがこぼれてしまいそうなこの絵本は、身近にあるものを簡潔に、ユーモラスに説明してゆく絵本です。
タイトルにあるとおり、あなはほるもので、そしておっこちるものでもあるということ。そんな当たり前のことを、いくつもいくつも描いていきます。「おさらはあらうもの」だし、「おひさまはいついちにちがはじまるかおしえてくれるもの」で、「あしのおやゆびはダンスをするためについている」もの。
読むうちに楽しい気持ちになってゆくのは、きっとクラウスの言葉から、自由な角度で事物を見つめるまなざしが感じられるからでしょうし、またなぜか胸を打たれるのは、書かれているすべての説明は、こうあってほしいという願いがどこか込められているのではないかと気がつくから。
言霊とはよく言いますが、ここに書かれていることばは、そのものを特定し、たったひとつに限定して書いているのに、なぜか、そんな束縛のちからなどむしろ感じられず、書かれたこと以外の無数のことばへ広がっていくちからを感じます。
そのことばは、それである必要は全然なく、たとえば「てはつなぐためにあるの」ならば、物書きであれば手は鉛筆を持つものだと言うでしょうし、犬を飼っている子なら飼い犬を撫でるものだと言えばいいのです。クラウスの選んだたったひとつの答えがおしえてくれるのはつまり、ここに書かれていることばは、人口分の1の答え方でしかないということで、けれど、それがすべてなんだということではないでしょうか。
この本を手に取ったとき、本のサブタイトルとなっている「ちっちゃいこどもたちのせつめい」とは、クラウスがこどもたちのことを説明している、という意味合いだと思っていました。けれど、献辞を読んでみると、そこにはある保育園のこどもたちと先生に向けたお礼の言葉が綴られています。ですから、この本の中のことばは、まったくのクラウスの創作なのではなく、ちいさいこどもたちに説明してもらったものをクラウスが書き留めたものなのかもしれません。
そして、その文に合わせてワンカットずつ添えられたセンダックのイラストの愛らしさ。小さな子どもたちが体いっぱい動かしてクラウスの言葉を体現しています。どの子もみんなちがう動きをしているのに、みんな子どもらしい。十人いれば十人とも違う子どもらしさを持っているはずで、そうしてセンダックによって描かれた子どもたちは、クラウスの持つことばの広がりと同様に、例えば描かれているのがたった一人の子どものページであっても、それは世界中すべての子どもを描いているのと変わらないことなのではないかと、思えてくるのです。
そして、この本の最後、「おひさまはすばらしいひになるようにでてくるもの」の言葉とともに飛び込んでくる子どもたちの大行列の絵に、この本がクラウスとセンダック、ふたりで作った子どもたちへの讃歌なのだと、嬉しくなるのです。
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「あなはほるものおっこちるところ」クラウス センダック
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