宮沢賢治の青  Miyazawa Kenji Abe Hiroshi

ミキハウスさんから毎年出版されている「宮沢賢治の絵本」シリーズのあべ弘士さんによる「なめとこ山の熊」です。

このシリーズは本当に素晴らしいですね。スズキコージさん、100%orangeさんのものは既に紹介しましたが、どれも宮沢賢治のお話に作者の力が遺憾なく引き出され、美しい化学反応が起こっているように感じます。

このあべ弘士さんの「なめとこ山の熊」もその例外ではありません。読んでいると、ハッと息を飲んで胸が震えるページが幾つもあります。特に親と子の熊が、遠くの山に差す月の光を眺めながら話しているシーンが心に残ります。月の光で青暗く浮かび上がった森の、この絵の青に震えてしまうのです。

詩人/批評家/作家である松浦寿輝さんがその著書「青の奇跡」で、宮沢賢治の「青」について言及されています。

「宮沢賢治の場合、その青のプリズムは極めて複雑で陰翳に富んでおり、一元的な読解は受け付けようとしない。「わたくしが青ぐらい修羅をあるいているとき」(無声慟哭)と書きつける詩人にとって、青は必ずしもつねに幸福な色彩だったわけではない<中略>しかし、一方にそうした不吉で残酷な青があるからこそ、われわれは、ひたすら幸福な青が偏在する「ポラーノの広場」のような作品を偏愛せずにはいられないのかもしれない。<中略>その情景には、ほとんど奇蹟的とも言うべきイメージの力が漲っている」

宮沢賢治の作品には「春と修羅」の冒頭を始めとして(「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」)青のイメージに満ちています。例を挙げれば恐らく枚挙にいとまがないでしょう。そしてその青には、松浦寿輝さんが言うように両義性を持つもので、多彩な感触と印象が練りこまれ昇華した色彩として描かれているのだと思います。

「なめとこ山の熊」の月光を見る親子の熊の場面に出てくる「青」の宮沢賢治の言葉は「月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこが丁度銀の鎧のように光っているのだった」「お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえている」(なめとこ山の熊の主人公の小十郎は熊の胃を捕るのを生業としています。コキエというのは牡羊座の星のひとつです)です。この美しい情景を、あべ弘士さんは奇蹟的な美しさで描いています。

ここには一見このお話の主題ともいうべき命の循環/やりとり、と言ったものは直接的には描かれてはいないかもしれません。しかし何故か私には、この場面にこそいちばん鋭くこのお話の血ともいうべきものが流れ、浮き出ているように見えてしまいます。

それはこのあべ弘士さんの絵によるものでしょうか。

親子の熊が月に照らされた遠くの山の光を見ながら、あれは雪だ、霜だ、ひきざくらの花だ、と話す青い夜に染まった世界を、小十郎が後ろからそっと覗き見ている。ちょっと背筋がぞっとするほど、素晴らしい場面です。あべ弘士さんはこの場面に、宮沢賢治のその多彩な響きを持った「青」を呼び出し、描き込んでいるように感じるのです。

このミキハウスさんの宮沢賢治のシリーズはまだまだ出る予定のようですが、既に宮沢賢治絵本の決定版シリーズと言って良いのではないでしょうか。今年は10月に出久根育さん、こしだミカさんのものが出ましたね。来年2016年には「フランドン農学校の豚」nakabanさん、「雨ニモマケズ」柚木沙弥郎さんを予定しているようです!とても楽しみですね。

当店在庫はこちら「なめとこ山の熊」


0コメント

  • 1000 / 1000