「ロスチャイルドのバイオリン」アントン・P・チェーホフ イリーナ・ザトゥロフスカヤ

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ、このロシアの作家の名前を聞くと、私はいつも胸が締め付けられるような、でもその奥が暖かくなるような不思議な感覚を覚えるのは、彼の幾つもの、いいえ、数多くの素晴らしい短篇が私の中の何処かにあって、その物語たちの感触を呼び覚ますからなのかもしれません。

この「ロスチャイルドのバイオリン」と名付けられたチェーホフの短篇に絵を付けて素晴らしい一冊の本にした画家の名前は、イリーナ・ザトゥロフスカヤ。

80年代頃から活動を始め、個展は世界各国で開催され人気を集めました。95年の展覧会の際には、あのユーリー・ノルシュテイン(きりのなかのはりねずみetc.)がイリーナのドキュメンタリーフィルムを制作しました。

このもの哀しい物語は、ある小さな村の棺桶屋を営む老人ヤーコフ・イワーノフについての短いお話です。

儲からない自らの職業を始めとして、五十数年連れ添った妻へも、身の回りの出来事全てを金での損得で勘定し悪態をついているこの老人が、その妻を亡くし、そして自らも死を迎える、そんなお話なんです。

彼にもたった一つだけ長所があって、それはバイオリンの演奏がとても上手だということでした。だからいつも豪華な婚礼の場に呼ばれ、幾許かの小金を稼いでもいましたが、同じオーケストラのフルート弾きのユダヤ人、ロスチャイルドが気に入らず、彼を苛めてばかりいるので、オーケストラに呼ばれるのも稀になってしまいます。

ヤーコフは妻を亡くします。その妻と生活した長い日々を、彼女のためには何一つしてこなかったことを思い憂愁の中に沈むのですが、次第にまたいつもの損得の計算を始めてしまいます。

程なくして彼も病に倒れ、もう残り僅かな自分の生の時間を思います。損得でしかものを考えない彼には死は莫大な利益を生むもののように考えられるのですが、その病床の傍らに立てかけたたったひとつのバイオリン、このバイオリンのことを思うと、無性にやりきれない気持ちになってくるのです。

そんな所へ、演奏の依頼の伝言を頼まれたフルート弾きのロスチャイルドが訪れ

ます….。

あとがきで訳者の児島さんが名前を挙げてもいますが、パウル・クレー、シャガール、こうした素朴さと哀切さを併せ持った画家たちをも思わせるようなイリーナ・ザトゥロフスカヤの描き出す美しい絵は、この短い物語を、読む者の深い部分へより染み込ませ、響かせてくれるようです。

ラストシーンで奏でられる、このバイオリンから響く旋律が文章からも、絵からも、美しく聴こえ、ページを閉じた後にもまだ、その余韻は鳴り続け、またあの「チェーホフ」と言う名前から呼び覚まされる記憶の響きをも彩ってゆくのです。


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