「雁の童子」宮澤賢治 司修

先日、当店のお客様に少しだけ、宮澤賢治についてのお手紙を書いたので、そうするとすぐにどこか胸の内で、宮澤賢治の本が読みたいな、そんな思いがふつふつと湧き上がっていて、今日は当店の在庫の中から、司修さんが挿絵を描いた「雁の童子」を読み返していました。

宮澤賢治の作品の中では知名度は真ん中辺りでしょうか?その内容は知らなくとも、題名は聞いたことがある、という方は多いのではないでしょうか。でも、私の周りでこの作品の話をしている人はいたことは無い気がしますが…。

「雁の童子」のお話を、読んだことの無い方に簡単に説明したいのですが、どうにも説明がし難いお話です。

そんなに長いお話ではないのですが、小さな部分が全体にとって重要であると思われる箇所ばかりで、ですので全く無視して極端にものすごく短く説明するか、反対にほとんどテキストそのまま書かれていることを繰り返すかのどちらかしか出来ない気がします。

短く言ってしまうと、これは輪廻転生のお話です。

時や世界を越え、或る二人が縁の中で再び出会うお話です。

いえ、はっきりとはそんな風には書かれていないかもしれません。

再び相見えた二人の、前世(宮澤賢治はそんな言葉も使っていません)の関係も、はっきりとは示されてはいません。

読者に示されるのは、すれ違うある人間とある人間の、一瞬の邂逅と、まるで祈りのように空に消えていく言葉だけです。


お父さん、水は夜でも流れるのですか。

とお尋ねです。

砂漠の向こうから昇って来た、大きな青い星を眺めながらお答えなされます。

水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平らな所ででさえなかったら、いつまでもいつまでも流れるのだ。


いいえ、お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰もどこへも行かないでいいのでしょうか。


こうした幾つかの部分やまたお話の全体から、方丈記を思い出す方もいるかもしれません。

私はゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を思い出しもしました。

人間の世の無常と、忘却の中で延々と繰り返されてきた連続した生命の連なり。宮澤賢治はこの一人の人間の生命の儚さを受け入れつつも、なんとか永遠に続く生命の連続の中で意味をもたせようと、輪廻転生のお話を語っているようです。

このお話の最後に旅人が(このお話は偶然であった二人の旅人の間で交わされた物語なのです)口にする言葉は、それは全ての別れの場で、出会ったことの意味を持たせてくれるような、そんな美しい言葉です。

最後になってしまいましたが司修さんの、胸の中の、もっと奥の骨の芯をこつこつと打つような繊細な絵も、大変美しく読者の感動を深くさせます。


当店の宮澤賢治の本はこちらです。

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