いつか世界で『いちばん美しいクモの巣』を

濃淡のある橙一色に、黒の細い線が縦横斜めと規則的に渡る。中央には大きく「いちばん美しいクモの巣」の文字。
クモは苦手。なので、クモの絵本にはあまり触手が動かない。はずなのですが、このシンプルな織物、クモの巣って、確かに、美しい。
そんな風に、本を開く前から、ひとつ新しい発見をして、「いちばん美しいクモの巣」っていうのはどんなものだろうか、と表紙をめくる。

お話を書いたのは『ゲド戦記』や『空飛び猫』シリーズで知られるル=グウィン。
舞台は誰も住まなくなったお城。そこにはネズミやフクロウとともに、たくさんのクモが住んでいました。その中の一匹、リーゼは一族の中でもちょっと変わったクモでした。
食事のためだけに巣をつくる仲間たちとは違い、ある時からこの糸を使って綺麗な絵を描きたいと思い始めるのです。その描き方、こだわり方は並みでなく、他のクモたちに冷たい目で見られながらも毎日熱心に創作に打ち込むのです。
そうしてようやく完成したクモの糸でできた見事なタペストリーを、城を博物館にするため部屋へ入ってきた二人の掃除婦たちが発見します。二人は驚き感動して、これをガラスケースに入れて展示しようと提案します。
ほかの者たちから讃えられ、立派な美術館にまでなり、普通ならリーゼの一途な努力が認められ報われたここでハッピーエンドにお話は落ち着きそうなものです。
けれどこのお話は終わりません。それどころか、一転タペストリーを作ったのがリーゼとは気付いてももらえずに、リーゼは城の窓から出されてしまいます。
「いちばん美しいクモの巣」は、人間たちに認められたそのタペストリーではありませんでした。外の世界をはじめて知り、光の美しさを知ったリーゼは、やがて誰に讃えられるわけでもなく、「いちばん美しいクモの巣」をとうとうその場所で作り上げたのでした。

最後まで読み終えた時に飛び込んでくるのは、一目見て印象的だった橙、それではありませんでした。むしろその色が塗られていない部分。塗り残しのような白い箇所。リーゼが見た朝日の色です。橙一色だと思っていたその絵は、よく見ればどのページにも白があります。その白は、城の中では埃のようにそこここに点在し、外の世界では雲となり風となり光になります。古い城の中も、リーゼの胸を打った光も、ブランスマンは新たな色を足すことなく、見事に表しています。それは、クモの糸ひとつで美しさを織り出したリーゼに倣ったような、ブランスマンの美しい世界と言えるのではないでしょうか。

このお話の主人公は小さな小さなクモの女の子リーゼ。あんまり小さいので、どのページでもまるで「ウォーリーをさがせ」のように主人公を探してしまいます。そうしてやっと見つけたリーゼの体は、小粒すぎてその表情が描かれることはありません。
そこで、言葉です。ページいっぱいにぎっしりと、敷き詰められた言葉があるのです。
絵本にしては大胆に文字が並べらたこの本。「書くことは夢を翻訳すること」とするル=グウィンのこの物語は、詩人長田弘さんの繊細な言葉でもう一度翻訳されていきます。とても丁寧で、無駄の無いなめらかな文章。それは、美しいクモの巣のように長田さんが一文一文穴があかないように丹精に織り上げた文章なのだと思います。読んでいけば、細い細い線で描かれた小さなリーゼの、その時々の表情が見えてくるのですから。

ル=グウィン、ブランスマン、長田弘さん、三者が持つそれぞれの美しい糸で見事に編み上げられたこの絵本は、まさに珠玉の一冊と言えるのではないでしょうか。


長田さんは、この本を含めた沢山の絵本を、「詩人が贈る絵本」シリーズとして邦訳されました。どれも、長田さんの詩の世界をまた違った形で味わえる、貴重な本たちです。

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